百鳥同人作品鑑賞/5月号より
「百鳥」同人作品欄の作品鑑賞
5月号〜6月号をお送りいたします。馬場龍吉
揚げ雲雀家持の歌聞こえけり 大串 章
聞こえてきたのは唄ではない。〈うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば 大伴家持〉の歌である。いずれ失ってゆくことになるだろう、うららの春光も雲雀の囀りも。作者はいま春の明るさの消失感を詠んだ家持の歌をなぞるような心持ちで一人佇んでいる。
まづ顔を洗ふ遅日を戻りきて 森賀 まり
男であれば顔を洗うのは朝の習慣か午後の脂ぎった顔を洗うのだが。掲句、遅日の用を済ましてからの洗顔らしい。女性の場合顔を洗うということは化粧を落すこと。その日一日の仮面を脱ぎ普段の自分に戻ることでもあろう。
角田山笑ひ弥彦の応へけり 中村 昭義
深田久弥の『日本百名山』には高さに於いて外された山ながら越後平野では関東の富士山ほどに親しまれている弥彦山。それに連なる角田山は前山か背山で作者にはご近所ほどに感じている山だろう。雪解けの越後の春だ。
近未来都市のジオラマ春を呼ぶ 石崎 宏子
と、詠まれると鉄腕アトムが発表された頃を思い出す。その頃には無かったものすべてが実現化されているといっても過言ではないだろう。春こそ未来を語るに相応しい。
浮世絵の顎の突き出す寒九かな 相川 幸代
写楽の役者絵をヒントに詠まれた作品だろう。写楽の絵も北斎の絵と同様たくさんの俳句に詠まれている。その中でも季語「寒九」が役者の名前のようでもあり楽しい。
熱燗や父に逆らひ父に似る 安達 輝美
酒がビールでないところが青春時代からだいぶ経っての感慨と思える。つまり今現在の懐古であり実感だろう。父親の存在とはそういうものでそれでいいのかもしれない。
北窓開く世界は滅亡してをらぬ 遠藤 千波
北窓を開く前にすでに世の中が見えているではないか。と突っ込みを入れてはいけない。真っ暗の部屋から窓を開けたときの春の世界の明るさを享受する余裕が俳人だ。
似て来り亡き子の顔と雛のかほ 大串 若竹
逆縁の親であれば、子どもの愛し遺したどんなものにもこう感じ愛しいものだろう。雛人形は顔を持っているがゆえに仕舞うときまで子どもの顔が投影されることになる。子どもに見守られているようでもあり悲しさがある。
松の芯いづこに住むも長子なり 萩原 葉月
近年の日本ではそうでもないかもしれないが、長男として育つプレッシャー、責任は幼年時代に始まり、故郷に遠く暮らしていてもそれは免れ難い。故郷の庭にもあった松の花を見るたびにそれを思う。「松の芯」が動かない。
藪椿吐息のごとく一花落つ 田子 萌
椿の花の美しさは椿の葉の峻烈な緑があるゆえにだ。すでに落ちた花びらで地面は赤く彩られていることであろう。「吐息のごとく」は作者の主観には違いないが、椿の吐息が散らす一花であることにも間違いない。
春水をじやぶじやぶ使へ妻癒えよ 望月 清彦
病を得た妻を思う気持ちが素直に出ている作品。春先の冷たい水をじゃぶじゃぶ使うまでに病が癒えてほしいという願い。「じやぶじやぶ使へ」心から出た俳句でもある。
無垢な子のその子の春にゐたきかな 百瀬さやか
「無垢」は言い過ぎだろうと思われるが、この作品に限ってはこの言葉が必要だ。筆者は普段孫俳句は採らない。ピュアな子どもとピュアな大人の出会いが続きますよう。
蟻生れて臼杵大仏ひた登る 山本あかね
臼杵大仏というといかにも日本ならではの素材なのだが、大仏の高さまで登ると思うと、これはガリバー旅行記ではないかと思いあたるのだ。蟻の世界はとてつもない。
うららかや祖父を追ふ子を母の追ひ 渡辺 昌子
平凡な日常の一齣なのだが、子どもの一途な気持ちも。母親の心配する気持ちもよくわかる。思いたったらすぐに行動する子どもから親は成長するまで目が離せないのだ。
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